正月休みから今日にかけて2冊の本を読んだ。田口ランディ「アンテナ」と村上龍「イビサ」。


この2冊には題字の共通点「コミュニケーションとテレパシー」があったことに、ふと気づいた。
2冊とも予てから読みたいと思っていた本ではあるけれど、この取り合わせは偶然だった。
田口ランディ「アンテナ」では、妹の失踪により互いの意思疎通が疎かになった家族が、テレパシー的な意思疎通により、関係が回復していくあらすじ(ちょっと違うかもしれん)。
母は新興宗教にはまり、弟は妹の身代わりとして育てられ、主人公はそんな家を出て行った。まったく意思疎通をしていない家族は見た目に崩壊していなくても無いも同然なんだと思う。そこに「アンテナ」による、ある種テレパシー的な方法により、家族のことが”なんとなくわかる”ようになる。わかってくると関心がでてきて再び意思疎通をしようとする。テレパシーがコミュニケーションへの起爆剤となったわけだ。
一方、村上龍「イビサ」は、主人公が旅先のパリで突如テレパシーに目覚めるはなし(細かく書けばキリがないので大雑把に)。テレパシーに目覚めた主人公は「カタコト日本語のできるフランス人」にはテレパシーを送り伝えることができるけれど、「イスラム系アフリカ人」にはそれができない。ここでのテレパシーはコミュニケーションの一手段でしかなかったのじゃないだうか。もちろん主人公にとって相当便利なもののようだけど、万能じゃない。一方的だし。
ここまで書いてて似たようなテーマの小説を思い出した。ジョン・ダートン「ネアンデルタール」。

現代まで生き延びたネアンデルタール人がテレパシーを使えるのだけど、主人公は彼らにテレパシーがあるのを知りながらも絵を描いてみせたり、ジェスチャーをしたりして彼らとコミュニケーションをとっていた。テレパシーが無くてもコミュニケーションはとれる。たとえ言葉を使えない類人猿とでも。
テレパシーなんてエキセントリックな能力の無い僕たちは、他者とコミニケーションをとる場合、「対話」をします。相手が理解できるように話しかけ、相手の言うことに耳を傾け、内容を理解しようとします。ときにジェスチャーを交えたり、絵を描いたりしてわかってもらおうと努力します。
「アンテナ」と「イビサ」、どちらの主人公とも自分をわかってもらいたいのに、そのための努力をしていなかった。そしてそこらへんのところが自分と重なったりして、まだまだ自分に不足があるなぁと空を仰いだりしたのでした。

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