狂詩曲

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 映画「六ヶ所村ラプソディー」を観た。ちょっとどころじゃない衝撃をうけた。
 この映画には”負け”な人ばかりが出てくる。失礼かもしれないけど、そうなんだ。反対運動を細々と続ける人々、農地を売り払い建設業に転業し成果を挙げる人、漁師を廃業して施設内で防護服を着て働く人、それぞれの負け方が描かれている。観ていてこみ上げてくるのは怒りだ。どうして、どうして、どうして、受け入れるのか。再処理施設は何世紀にもわたる汚染を残す可能性があるというに。どうして、どうして、どうして。
 「ダーウィンの悪夢」的なことが日本の国内でもあったんだ。都会で消費される電力は過疎地の原発で生産されている。もちろん周辺地域へは自治体に税金が入ったり、雇用が増えたりはするけれど、恩恵を受けられない人はとことん受けられない。そして原発で出た使用済み核燃料が六ヶ所へやってきて、同じように自治体に税金が入ったり、雇用が増えたりはするけれど、恩恵を受けられない人はとことん受けられない。六ヶ所に関しては大気と海へ放射性物質を廃棄するというオマケつきときたもんだ。
 大気と海へ放射性物質を廃棄するということの怖さ。日本原燃は微量であること、大気や海水に拡散されることを理由に「安全だ」ということにしている。けれど、たとえどんなに微量でも放射能は蓄積され続ける。蒸発してどっかいったり、水に溶けてなくなったり、バクテリアが分解したりなんかしない。蓄積され続けるんだ。いったいどうして安全だなんて言いきれるんだろう。
 また、放射能濃度の高さと健康被害は統計学的には因果があっても医学的には立証されていないことになっているので、「関係無い」ことになっている。ヒロシマやナガサキで最も苦しんでいるのは爆心地から半径○キロ内(不確かなので伏字)にいなかった”被爆者”だ。半径○キロ内にいなかったから被爆してないでしょってことで、被爆者手帳をもらえなかった人たちは、ガンや白血病に怯え、あるいはそれらに苦しみながら、補償も無く生きている。風向きや行動しだいで放射性物質を浴びた、あるいは吸い込んだ可能性があるというのに、補償を受けられない人たちはたくさんいる。いったいどうして関係無いと言いきれるんだろう。
 なにより使用済核燃料を「再処理」してプルトニウムを生成するという行為の馬鹿馬鹿しさ。プルトニウムは長崎に投下された「ファットマン」にも使用されたもので、自然界には存在しない物質だ。それをわざわざ生成するというのは、比較3原則に抵触するんじゃないかな。ともかく、プルトニュウムってのは高濃度の放射能を撒き散らす高性能の火薬のようなもので、扱いが危険極まりないものなんだ。
 最後に、六ヶ所村の再処理施設が稼動しても、その先の施設「高速増殖炉」の事業が未だ完成していないという事実。リサイクルになってないのだ。何のための処理なのか、もう知れば知るほど馬鹿馬鹿しくなるし、この馬鹿馬鹿しいことに何兆円という国家予算が垂れ流されていたんだから、開いた口がふさがらない。なんなんだ、これは。
 終演後、鎌仲監督の90分に及ぶトークと質疑応答はとても有意義で、映画に収まらなかった事実をたくさん聞けた。電連が世界一広告費を払っているそうで、その財力はマスコミをだまらせるのに充分なんだそうだ。どうりで報道されない筈だ。
 2月8日まで横川シネマ!!にて1日2回上映。こんなことは滅多に書かないけど、観ろ!

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