クラムボンのツアードキュメンタリー「たゆたう」は、ミラクルがいっぱい詰まった映画だった。けれど、ミラクルばかりを次々に観ていると、ミラクルが起こるのが当たり前になってしまって、とっても平坦なつくりの映画になってしまっていた。うまく行きすぎているんだ。葛藤が、衝突が、挫折が、足りない。
でもキャリア12年の彼らの演奏はやっぱりすごい。いままで日程がとことん合わずに一度もライブを観れていないんだけど、この映画観てすごくライブに行きたくなった。郁子ちゃんのピアノと歌は「いい」の一言に尽きるし、ミトくんのあやうい感じで実はストイックなベースはその扇動的な仕草もあって見とれてしまうし、大助さんのどっしりと腰の据わったドラミングは安定をもたらしてくれる。ずーっと聴いていると安心しきって、途中何度もウトウトしそうになってしまった。ライブでもウトウトしたいなー。
映画「六ヶ所村ラプソディー」を観た。ちょっとどころじゃない衝撃をうけた。
この映画には”負け”な人ばかりが出てくる。失礼かもしれないけど、そうなんだ。反対運動を細々と続ける人々、農地を売り払い建設業に転業し成果を挙げる人、漁師を廃業して施設内で防護服を着て働く人、それぞれの負け方が描かれている。観ていてこみ上げてくるのは怒りだ。どうして、どうして、どうして、受け入れるのか。再処理施設は何世紀にもわたる汚染を残す可能性があるというに。どうして、どうして、どうして。
「ダーウィンの悪夢」的なことが日本の国内でもあったんだ。都会で消費される電力は過疎地の原発で生産されている。もちろん周辺地域へは自治体に税金が入ったり、雇用が増えたりはするけれど、恩恵を受けられない人はとことん受けられない。そして原発で出た使用済み核燃料が六ヶ所へやってきて、同じように自治体に税金が入ったり、雇用が増えたりはするけれど、恩恵を受けられない人はとことん受けられない。六ヶ所に関しては大気と海へ放射性物質を廃棄するというオマケつきときたもんだ。
大気と海へ放射性物質を廃棄するということの怖さ。日本原燃は微量であること、大気や海水に拡散されることを理由に「安全だ」ということにしている。けれど、たとえどんなに微量でも放射能は蓄積され続ける。蒸発してどっかいったり、水に溶けてなくなったり、バクテリアが分解したりなんかしない。蓄積され続けるんだ。いったいどうして安全だなんて言いきれるんだろう。
また、放射能濃度の高さと健康被害は統計学的には因果があっても医学的には立証されていないことになっているので、「関係無い」ことになっている。ヒロシマやナガサキで最も苦しんでいるのは爆心地から半径○キロ内(不確かなので伏字)にいなかった”被爆者”だ。半径○キロ内にいなかったから被爆してないでしょってことで、被爆者手帳をもらえなかった人たちは、ガンや白血病に怯え、あるいはそれらに苦しみながら、補償も無く生きている。風向きや行動しだいで放射性物質を浴びた、あるいは吸い込んだ可能性があるというのに、補償を受けられない人たちはたくさんいる。いったいどうして関係無いと言いきれるんだろう。
なにより使用済核燃料を「再処理」してプルトニウムを生成するという行為の馬鹿馬鹿しさ。プルトニウムは長崎に投下された「ファットマン」にも使用されたもので、自然界には存在しない物質だ。それをわざわざ生成するというのは、比較3原則に抵触するんじゃないかな。ともかく、プルトニュウムってのは高濃度の放射能を撒き散らす高性能の火薬のようなもので、扱いが危険極まりないものなんだ。
最後に、六ヶ所村の再処理施設が稼動しても、その先の施設「高速増殖炉」の事業が未だ完成していないという事実。リサイクルになってないのだ。何のための処理なのか、もう知れば知るほど馬鹿馬鹿しくなるし、この馬鹿馬鹿しいことに何兆円という国家予算が垂れ流されていたんだから、開いた口がふさがらない。なんなんだ、これは。
終演後、鎌仲監督の90分に及ぶトークと質疑応答はとても有意義で、映画に収まらなかった事実をたくさん聞けた。電連が世界一広告費を払っているそうで、その財力はマスコミをだまらせるのに充分なんだそうだ。どうりで報道されない筈だ。
2月8日まで横川シネマ!!にて1日2回上映。こんなことは滅多に書かないけど、観ろ!
先週の土曜からこの水曜まで連日横川シネマに通いつめていました。そう、「ガンダーラ映画祭2」とライブへ。
まずは「ガンダーラ映画祭2」から
前回のをオールナイトで一気見してドキュメンタリーに食傷してしまい、以来、僕のドキュメンタリー観は変わってしまった。とくに森達也「後ろの正面だあれ?~カゴメカゴメの謎」
今年は4夜連続の日替わり1回のみ上映というタイトなスケジュールだったけど、なんのその。全部見ました。印象的だった作品を幾つか挙げてちょっとだけ感想書きます。
・山下敦弘&向井康介「パリ、テキサス、守口」
失敗作「よっちゃん」をめぐる迷走。古傷をえぐるようなことをわざわざ…なんて思いながら見てたけど、終わる頃にはものすごく「よっちゃん」が見たくなってしまった。かの作品は世界中で大阪の守口だけでしか見れないらしい。よけい見たくなる。
・いまおかしんじ「金鮎の女」
「童貞。をプロデュース2」の代わりに差し込まれた作品。初出は第3回背徳映画祭。
もしもいまおかしんじが「童貞。をプロデュース」を撮ったら…的なifを成立させていまう快作。オトコってのは愚弄だから40になっても女の子をデートにも誘えないのさ。
・村上賢司「俺の流刑地(略称・俺ルケ)」
日本映画界のアンタッチャブル・渡辺文樹監督に密着したドキュメント。渡辺監督のワンマンパワーがとてつもないだけにスクリーンからすごいパワーを感じる。30秒に1度は驚愕するよ。そして撮影者の村上監督が渡辺監督の虜になってゆくというシナリオが加付されるつくりも秀悦。ちょうど村上監督が来館されててイロイロ興味深い話を聞かせてもらえた。渡辺監督の次回作と次期来広にいろんな意味で期待。
・2006年作品
一度見た作品、とはいえDVD化とかありえそうにないので見ておくことに。
「南の島にダイオウイカを釣りにいく」は、去年見たときは「習作か?これ」なんて思っていたけど、改めて観ると極めてガンダーラ的な作品だったんだと気づいた。「秀作だ!これ」
「子宮で映画を撮る女」、やっぱりオモシロイ。野嵜の徹底したKYっぷりに大物の予感。
「私の志集 三〇〇円」あの新宿西口の女性はすべての文系男子の憧れだよ。いまも立ちつづけているらしい。
横川シネマの「ヒミコさん」初日に行ってきました。
この映画ほど見る人によって感想や意見の異なる作品はないと思う。かくゆう僕は未だこの映画を観て抱いた感覚をコトバにはできそうにない。
とにかくデタラメなんだ。それでいてとてつもなく納得してしまう。映画として成立しているんだ。これはいったい何なんだろう。
まりっぺ役の宇高さんで思いついたのだけど、この映画は深夜のTV通販的な洗脳テクを満載してつくられてるんじゃないだろうか。まじまじとデタラメを見据え続けることで、「アレ、コレってアリなのかも」的な幻惑というか錯覚状態に陥ってしまうという罠。うーん深読みしすぎか。
オールナイト上映でやった数作品にも言えることなんだけど、藤原章監督の作品にはいわゆる”弱者”が差別とか偏見とかを込みで弱者として描かれていて、その”ありのまま”な感じが自らを省みたときにハっとさせられる。
ストーリーにだまされてはいけない。写っているものにだまされてはいけない。喋っていることにだまされてはいけない。予告編にだまされてはいけない。この映画には藤原章監督さえも意図していない真実がきっとあるはず。そして深読みしすぎてもならない。
映画「いのちの食べ方」を見た。
オートマティックで食材が生産される様をただひたすらに映している映画だ。会話もテロップも何もないこの映画は、正しいとか悪いだなんて2極論への論議を否定するかのような、投げっぱなしのような、そんな映画だった。
幼い時、はじめて回転寿司に行った時、わくわくとした気持ちを持ちつつも何だか妙に悲しかったのを思い出した。規模とか効率とか考えるとまったく当然のことで、だからこそ僕たちは安く、そこそこの安全を信じてご飯を食べることができるんだけど、う~ん、この胸のもやもやはどうしたものだろう。ただ言えるのは、僕たちはそれを知った上で食べなければならない。噛締めて、残さずモグモグと。
にしても機械のかっこよさはそこらのCG映画に全く劣ってなかったよ。農薬散布機の両翼を広げるその様の美しいこと、魚の内臓を吸引する機械のまるで生き物のような仕草、牛を真っ二つにするノコの洗練さ。
コレだのものを見せられて、上映後、お腹が空いていたので僕の体はいまだ正直のようだ。
予告編は何だか押し付けがましい啓蒙映画みたいな感じだけど、ぜんぜんそんなじゃないです。
